歴史的因果 殿様屋敷との運命的な一致|サラヴィオ化粧品

サラヴィオ化粧品トップ > 歴史的因果 殿様屋敷との運命的な一致

歴史的因果 時空を超えた「縁」に導かれたRG92

住所の由縁

弊社の正式な住所は、大分県別府市大字鶴見字実ノ屋敷。
住所に「屋敷」という文字が入っていますが、実はこの地、かつて別府の明礬地域を治めていた森藩が所有する一大温泉保養地「照湯(てるゆ)」の敷地内にあたります。
偶然にも、殿様の屋敷だった 場所に本社屋と研究所が建っており、社屋周辺にある古木や巨石等で当時の面影を見ることがで きます。
弊社の住所にある「屋敷」は、江戸時代の殿様の屋敷に因んだものです。

鶴見七湯廼記(つるみしちとうのき)でみるサラヴィオ化粧品の位置
社屋周辺にはたくさんの巨石が残っており今も黒々と当時の面影を伝えています
社屋周辺にはたくさんの巨石が残っており
今も黒々と当時の面影を伝えています
照湯全体を見渡せる位置にそびえ立つ椎の大木。推定樹齢は300年を越えます
照湯全体を見渡せる位置にそびえ立つ椎の大木
推定樹齢は300年を越えます

照湯とは

江戸時代(西暦1842年)に森藩の藩主 久留島 通嘉(くるしま みちひろ)が造営させた、現代でいう温泉保養ランドで、砂湯や蒸し湯、庭園や茶屋、遊郭等を併せ持つ大規模なものだったと記録されています。
久留島通嘉は温泉がもつ効果を身をもって知る無類の温泉好きだったと伝わります。旅人達の宿場としてだけではなく、家臣や明礬の採掘場で傷を負った者達を癒す場だったと想像でき、藩にとっての福利厚生施設としても機能していたと考えられます。

久留島通嘉が照湯の完成を記念し作らせた『鶴見七湯廼記(つるみしちとうのき)』(大分県立歴史博物館所蔵)では、当時の照湯や、現代の別府明礬に伝わる「湯の花」等の温泉文化を知ることができます。

江戸時代の照湯の風景。一之湯から三之湯までもつ大型の温泉保養ランド
江戸時代の照湯の風景
一之湯から三之湯までもつ大型の温泉保養ランド
「地獄蒸し」や「湯の花」作り等の温泉文化は現代の明礬に受け継がれています
「地獄蒸し」や「湯の花」作り等の温泉文化は
現代の明礬に受け継がれています

久留島氏は、かつて瀬戸内海の安全を守った村上水軍の一族「来島村上」を祖先にもつ、伊予国(愛媛県今治市)の大名でした。弊社の創業者 濱田 茂もまた愛媛県今治市を故郷とし、偶然にも照湯が栄えた地で事業を起こし、温泉の力で多くの人々を癒そうとしています。歴史的因果は地にまつわるだけでなく、照湯を建てた久留島氏と創業者の故郷にまで及ぶものです。

 
サラヴィオ
サラヴィオ化粧品トップへ サイトマップ サラヴィオオンライショップへ